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中華街小故事

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はじまり語り、
なるほど話。

横浜開港150年企画

1859年7月1日。日本が外国に向けて開港した日、日本の近代史がスタートし、中華街誕生への時計も動き出しました。来る開港150年に向け、中華街に残る開港の足跡を訪ねて、歴史ある横浜と中華街の秘密に迫ります。

前編 横浜中華街 今昔

横浜中華街今昔

幕末、1859年に横浜の港が開かれた頃、ここ中華街のあたりは横浜新田と呼ばれていました。現在の南門シルクロード、開港道、長安道はそのあぜ道の名残と言われています。港町横浜には世界各地の人々が訪れ、中国の広東・上海などからも大勢の人がやってきました。広東は華僑の故郷と言われ、古くから海外に人々を送り出した土地です。横浜華僑の多くは広東の出身で、今も中華街に広東料理が多いのはこのためです。 開港当時西洋人は日本語がわからず、日本人は西洋の言葉や商売についてほとんど知識がありませんでした。

一方、香港・広東・上海の西洋商館で働いていた中国人は西洋の言葉が話せ、また日本とは漢字で筆談ができました。そのため中国人が西洋人と日本人のあいだに立ち、生糸や茶の貿易で仲介者の役割を果たしました。また、華僑貿易商は北海道産の鮑、昆布などの海産物を中華料理の材料として香港に輸出したり、砂糖を台湾から輸入したり、貿易港横浜の賑わいを支えました。

1910年頃の 関帝誕の祭 (横浜開港資料館)

華僑が営んだのは貿易や料理店だけではありません。洋館の建築、ペンキ塗装、西洋家具やピアノの製造、欧文印刷、洋裁など、当時の先端分野で華僑は活躍しました。中華街には早くから日本人も暮らしており、相互の行き来の中で新しい技術が日本人に伝えられていったのです。 また横浜には関羽をまつる関帝廟や祖先の霊を慰める地蔵王廟(中国人墓地)が建てられ、清明節・関帝誕・春節などの四季折々の祭事が営まれてきました。 街を練り歩く壮麗な獅子舞や龍舞は横浜名物の一つでもあります。しかし、中華街の歴史は平坦ではありません。関東大震災で街は崩壊し多数の犠牲者を出しました。また日本と中国の戦争の時代もありました。それでもこの街で華僑は生き続けました。戦後の混乱期、人々が温かい食べ物を求めてやってきたのはここ中華街でした。 中華街は華僑の街であるとともに横浜のエネルギーの源でもあります。横浜中華街が歴史と文化を大切にしつつ、誰にでも親しまれる魅力と味のある街であり続けてほしいと願っています。(横浜開港資料館 伊藤泉美)

横浜開港と中華街の形成(1859 ~ 1899)

幕末に日本が開国し、横浜の港がひらかれると、アメリカ・イギリス・フランスなど諸外国から大勢の商人が横浜を訪れ、外国人居住地として設けられた「居留地」に商館を開きました。彼らは、横浜進出にあたり、中国人をともなってきました。中国人は漢字によって日本人と筆談できたため、西洋人と日本人の間にたち、生糸や茶などの取り引きの現場で不可欠な存在となりました。

横浜と香港・上海の間に定期航路が開催されると、洋裁・ペンキ塗装・活版印刷などさまざまな新しい技術を身につけた中国人が横浜を訪れた。また北海道産のアワビやナマコなどの中華食材を香港・上海に輸出したり、台湾産砂糖を日本に輸入する華僑貿易商が現れる。

明治初年には横浜の華僑人口は約1000人となる。彼らは、居留地の一角、旧横浜新田を造成した地域に徐々に集まり住み、関帝廟、中華会館、劇場などを設け中華街を築いていきました。その後、日中間で日清修好条規が結ばれ、横浜に清国領事館が開設されました。しかし明治27(1894)年日清戦争が勃発すると、横浜華僑もその三分の一が帰国し、厳しい状況がおとずれたのです。日清戦争が終わり再び中華街に活気がもどると、中国の革命家孫文の来日に影響されて、華僑の学校が創設されました。

華僑社会の発展と震災の悲劇(1899 ~ 1923)

明治32(1899)年、居留地が撤廃されることとなると、中国人の「内地雑居」を危惧するさまざまな声があがりました。その一つは大勢の中国人労働者の来日で日本人が失業しないかということでした。そうした世論を背景にして、居留地外で仕事をする外国人には理髪・洋裁・料理業など一定の職業制限が設けられ、未熟練労働が規制されたのです。

横浜では居留地撤廃後、旧居留地外で料理店を営む華僑も次第に増え、華僑人口は20世紀初頭には5000人あまりに達しました。また中国人商業会議所や要明公所・三邑公所などの同郷団体も設立され、華僑社会は発展をとげていくのです。 しかし、華僑社会を未曾有の災厄が襲いました。

大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生し、中華街は壊滅的な打撃をうけたのです。古いレンガ造りの建物が密集していたため、家屋は倒壊・焼失し、多くの華僑が命を落としました。生き残った人々も神戸・大阪、さらに広東や上海へ避難した。上海の港には大勢の罹災華僑が上陸し、故郷の人々に迎えられて蘇州・寧波に帰っていった。こうして一時は横浜華僑は200人あまりに激減し、さらに震災後、人心が乱れる中で日本人による中国人虐殺という悲劇もおこったのです。 ※画像は横浜開港資料館より許可を受けて掲載しております。画像の無断使用・転載はおやめください。

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