特集FEATUER
中華街小故事
横浜中華街
はじまり語り、
なるほど話。
横浜開港150年企画
1859年7月1日。日本が外国に向けて開港した日、日本の近代史がスタートし、中華街誕生への時計も動き出しました。来る開港150年に向け、中華街に残る開港の足跡を訪ねて、歴史ある横浜と中華街の秘密に迫ります。
その3 地中から顔を出す昔の中華街
日本初の西洋瓦・レンガのかけらたち街の歴史は足下にアリ!?
街の歴史を辿る時、その手がかりになるのは、何でしょう? 当時の公文書や新聞・雑誌などの記録、街の長老たちの口伝も貴重です。でもそれらと同様に、重要な手がかりのひとつが、私たちの足下にあります。地中に埋まっている昔の街のかけらたちです。
中華街のほとんどは、現在、ビルやマンション、アスファルトの道路に覆われていて、土のなかを探ることは簡単ではありません。それでも時折、思いがけずその姿を現してくれることがあります。
今回は、まるでタイムカプセルのように記憶を封じ込めた地中のかけらから、昔の中華街の風景を見てみましょう。
136番地に出現したレンガ敷き
現在、山下町136番地には『媽祖廟』があります。2005年の春、建設工事が始まったこの土地で、大量のレンガやガラス瓶などが出土しました。姿を現したレンガ面(A)は、タテヨコに2枚ずつ敷き詰められた美しいもので、レンガは関東大震災(1923年)以前に作られたものであることがわかっています。震災の破壊を免れ、復興に再利用され、その後の大空襲でも壊れることなく、このような姿で残っているレンガは、とても珍しく貴重な史料です。そのため、大切に保存されるとともに、約1000枚のレンガは、媽祖廟の鐘楼・太鼓楼の建設の際、袴部分に活用されました(B)。媽祖廟を訪れたら、ぜひ見てみてください。
ちなみに、当時この土地には、“ワタナベ“という看板を掲げた日本人経営の牛乳屋や、中国人経営の両替商や籐家具店、西洋人経営のバーなどがありました。レンガ面は、中庭か土間のような場所だったと考えられています。このレンガの上に、文明開化の再先端をいく居留地の暮らしがあったのですね。
(A)破壊を免れて出土したレンガ面は貴重な遺産です。
レンガ面の下には、震災で倒壊した家屋のかけらの瓦礫の層が見えます。
(B)媽祖廟に建つ鐘楼・太鼓楼の足場部分にレンガが使われています。
清国領事館のかけら
中華街の歴史の要所、135番地の地中からは、関東大震災前の清国領事館のものと思われる瓦礫が発見されました。多種類のレンガに混ざり、中国製らしき色鮮やかな食器のかけらなどもあり、当時の暮らしが垣間見えます。しかし、瓦礫はどれも小さく砕けています。震災時、どれほどの倒壊・破壊が人々を襲ったのか…。地中のかけらたちはその凄まじさも語っています。
1882年に竣工した清国領事館。2000年に、118年の時を経てそのかけらが出土しました。
日本初の西洋瓦“ジェラール”
中華街で出土するレンガや瓦のなかに数多く見られるのが“ジェラール”です。清国領事館のかけらのうちもっとも多かったのも、ジェラールのレンガでした。「ジェラール工場」は、中華街の隣、山手の77・78番地にあり、1873年(明治6年)頃から明治末期までレンガや瓦の製造を続けていました。このジェラールこそ、日本で最初の西洋瓦なのです。
ジェラール工場は、もともとこの地に湧いていた湧き水を利用して、船舶への水の供給をしていました。当時の記録(C)にも“船用最上飲用清水販売所”の文字が見えます。工場は明治の終わりとともに姿を消し、その後、敷地は映画会社の撮影所として買収され、震災にあいます。震災後は、湧き水を利用した市営プールとなり、現在の元町公園の礎を築きました。
今もなお、中華街の地中には、無数のジェラール瓦やレンガが埋まっていることでしょう。残念ながら、現在はジェラール瓦の建物はほとんど残っていません。もしどこかで、レンガに“GERARD”の文字をみつけたら、それは、ジェラール工場のもの。大発見かもしれません。
1882年に竣工した清国領事館。2000年に、118年の時を経てそのかけらが出土しました。
取材協力:横浜開港資料館
写真提供:開港資料館 伊藤泉美
参考資料:横浜都市発展記念館『地中に眠る都市の記憶』、横浜開港資料館『横浜・歴史の街かど』
※画像は横浜開港資料館より許可を受けて掲載しております。画像の無断使用・転載はおやめください。