特集FEATUER
中華街小故事
横浜中華街
はじまり語り、
なるほど話。
横浜開港150年企画
1859年7月1日。日本が外国に向けて開港した日、日本の近代史がスタートし、中華街誕生への時計も動き出しました。来る開港150年に向け、中華街に残る開港の足跡を訪ねて、歴史ある横浜と中華街の秘密に迫ります。
その4 通りの名前に歴史あり!
開港当時の意外な名前と現代の通り名はじめに“本村通り”あり
右の地図は、開港当時の横浜を描いた貴重な地図です。左上の斜めの区画が現在の中華街にあたります。このエリアで唯一、名前が記載されている通りがあるのがわかるでしょうか。「HOMURA ROAD」「ROUTE DE HOMOURA」と書かれている“本村通り”です。現在の南門シルクロード~開港道にあたる、くの字の道です。
本村通りの名は、明治、大正、昭和と時代を経て町の人々に親しまれ、戦後になっても、その名は地図に明記されていました。しかし、本村通りの半分が、昭和34年以降“前田橋通り”の名で載るようになります。それがさらに昭和58年からは“南門通り”に、そして、平成6年からは“南門シルクロード”と記されるようになりました。
このように、中華街の通りには、さまざまな改名の歴史があるのです。今回は、その変遷を辿ってみましょう。
(C) 1865年(慶応元年)、フランス人技師クリペが描いた『横浜絵図面』
小田原、前橋、加賀、尾張!?
1866年(慶応2年)、開港間もない横浜で大火事が発生します。関内の2/3が焼失したこの大惨事を教訓に、居留地の整備に拍車がかかります。この時、〈延焼防止のために日本人居住地と外国人居留地の間に幅120フィートの大通りを作る〉という取り決めのもと完成したのが、現在の“日本大通り”です。そして、日本大通りを中心とする街区の整備、道路、下水道などが整った頃、居留地にはじめて町名が付けられます。1879年(明治12年)のことです。
その町名には、なんと、小田原町、前橋町、尾張町、函館町、蝦夷町など、全国の地名があてられました。世界各国の人々が暮らす外国人居留地の町名に、彼らにとって馴染みの薄いこのような名前を付けた真意は定かではありません。しかし、黒船来航を機に突如あらわれた“日本のなかの外国”に、せめて日本の名を刻んでおきたい、そんな当時の日本人たちの気持ちが働いていたのかもしれません。
1888年末の横浜を描いた地図。現在の中華街一帯に、多くの町名が書かれています。
通り名の名残りあれこれ
小田原町など名付けられた30の町名は、20年後の1899年(明治32年)、条約改正により外国人居留地が撤廃されると、日本大通りを除き、“山下町”となり、現在に至ります。しかし、今でも町のあちこちでかつての町名の名残りに出会えます。中華街に隣接する「加賀町警察署」や市営バスの「薩摩町中区役所前」をはじめ、町中の電柱に書かれた電話線の支線名などに残っているのです。また、通り名としても近年まで、中華街大通りは“前橋町通り”、関帝廟通りは“小田原町通り”と呼ばれていました。
小路にまで名がついた中華街
現在、中華街にはおよそ18の大小の通り名が付いています。長安道、上海路、広東道、福建路、蘇州小径など、中華街らしい名称は、町の内外にも知れ渡っています。しかし、これらの名が地図に登場してきたのは、ここ15~20年ほど前のこと。それまで、小さな路地などには名前がなく、香港路は昭和62年まで営業していた銭湯にちなんで“フロ屋通り”、中山路は米軍がそう呼んでいたことから“ハッピーアベニュー”などの通称で呼ばれていました。
唯一、昭和初期からその名を変えることなく今に至っているのは“市場通り”です。この通りでかつて朝市が開かれていたのが由来と言われています。食に関するこの通り名が、ずっと愛され続けてきたことも、中華街らしいエピソードです。
一見すると複雑な街区の中華街。でも、通り名を知ることで町はとっても身近になります。昔の町名や通り名の名残も一緒に楽しみながら、歩いてみてください。
取材協力:横浜開港資料館
参考資料:横浜開港資料館『横浜外国人居留地』、中区制50周年記念事業実行委員会編『横浜・中区史』、ゼンリン『住宅地図 昭和31年度版~2007年度版』、中区こだわり探検隊『解体新書』
※画像は横浜開港資料館より許可を受けて掲載しております。画像の無断使用・転載はおやめください。