特集FEATUER
中華街小故事
横浜中華街
はじまり語り、
なるほど話。
横浜開港150年企画
1859年7月1日。日本が外国に向けて開港した日、日本の近代史がスタートし、中華街誕生への時計も動き出しました。来る開港150年に向け、中華街に残る開港の足跡を訪ねて、歴史ある横浜と中華街の秘密に迫ります。
その7 街の発展に欠かせない下水道
明治時代の技術が今の中華街を支えている今も現役!? 縁の下の力持ち
関帝廟通りの西の端に立つ「地久門」から、さらに長安道を南に進むと、右手に水道局、中土木事務所が続き、そして、レンガでできた大きな土管が出てきます。これは明治時代の下水管で、日本が近代都市国家として成長する大きな一歩を踏み出した歴史を物語る、遺構です。しかし、これは完全に過去のものではなく、明治時代に作られたこの下水管が、なんと現在も、南門シルクロード周辺の一部で現役として使われているというから驚きです。当時の人々の技術の高さが伺えます。
今回は、中華街の発展を縁の下で支え続けている、下水道の歴史を振り返ってみましょう。
中土木事務所の入口横に置かれた下水管。1981年(昭和56年)に山下町37番地先から発掘されたものです。
開港間もない明治2年に下水工事がスタート
下水道の歴史は古く、日本では、7世紀末の藤原京・平安京の時代から下水道はあったといいます。いつの時代も、街の発展と下水道の整備は切っても切れないのです。 開港して数年、中華街を含む外国人居留地では、人口が急増。生活排水や雨水を処理する下水道の整備が急がれました。そこで1869年(明治2年)、明治政府最初のお雇い外国人であるイギリス人技師・ブラントンが、陶管を使った暗渠(あんきょ)式下水道システムを計画し、さっそく工事が始まります。
道路の中央の地中、2.5フィート(約75cm)以下に400分の1の勾配をつけて陶管を設置し、7カ所から海へ放流。全道路の左右に側溝を設け雨水が流れるようにし、200フィート(約60m)ごとに雨水枡を設置して地中の陶管へつなげる、という計画です。総延長は7156ヤード(約6.5km)。2年がかりで完工しました。
それまでの日本の下水処理は、開渠(かいきょ)式や汲み取り式でした。それを地中に埋める暗渠式にしたことは画期的で、この下水道の暗渠化が“近代下水道のはじまり”とされています。そして、日本ではじめて近代下水道が整備された街こそが、横浜と神戸の外国人居留地だったのです。
開港広場から出土したブラントン時代の陶管。“本横瓦甚仕入”の刻印があり、東京本所横網町にあった佐藤甚兵衛の瓦製作所で作られたと考えられています。
人口増加&コレラの脅威で大改修
しかし、はやくも完成から10年足らずで、ブラントンの陶管下水道は容量が足りなくなってしまいます。それもそのはず、完成当時1000人あまりだった外国人居留地の人口が、1880年(明治12年)には約4倍の3937人にまで増加していたのです。また、1877~79年にかけて、全国でコレラが蔓延し11万人にもおよぶ死者が出ていました。不衛生が元で広がるコレラの脅威を母国の歴史で知っている居留地の外国人たちは、一刻も早い下水道の改修を望みました。そして1881年(明治13年)から6年をかけて横浜下水道の大改修が始まるのです。
性能抜群! 卵形のレンガ管
この大改修で活躍したのが、日本人技師・三田善太郎です。東京大学理工学部土木工学科の一期生にあたる三田は、断面が卵形をしたレンガの土管を提案します。これは約30年前に英国人技師フィリップが考案したとされるもので、少量の水でも流速を保て、汚物の沈殿を防止できるというものでした。ポイントは3つ。卵を逆さにした形であること、タテとヨコの比率を3:2にすること、勾配は200分の1にすること、でした。レンガ造の卵形管は、大下水・中下水・小下水という3サイズが用意され、それに陶管を接続することで、居留地全域を網羅する下水道網を整備。堀川と大岡川へ放流する新しい下水の流れをつくりました。
中華街エリアでは、南門シルクロードと市場通りの地下に、タテ2.5尺(約76cm)、ヨコ1.4尺(約42cm)の中下水が埋められました。南門シルクロードの地下で現在も機能しているのは、この中下水だといわれています。
横浜開港資料館の敷地内に保存されているレンガ造卵形管。卵を逆さにした形がよくわかります。
マンホールにも工夫が満載
この大改修で、卵形管と一緒に作られたマンホールにも、じつはさまざまな工夫と技術がつまっていたことが、わかりました。2001年に出土したマンホール遺構により、それまで資料でしかわからなかったマンホールの細部が明らかになったのです。
マンホール内部には木炭を入れた箱が取り付けられていました。積み上げた炭を両側から鉄網で挟みこむように設置。その背面に空洞を設け、そこから外部へとつなげることで、下水道内部の臭気を浄化してから外部へと通気させていたのです。さらに、外部と水道管をつなぐ管にはS字カーブがつけられていて、ここに水が溜まることで水道管内部から立ち上る臭気を止めていたのです。現在、どの家庭の配水管にも見られるトラップ技術がすでに活用されていたというわけです。
開港からわずか20年足らず、明治初期にして、すでにこのような下水道システムが整備されたことは、中華街や横浜の街が発展し続けた大きな理由のひとつです。
公衆トイレとも縁深い中華街
ちなみに、近代下水道のはじまりの地である横浜は、じつは公衆トイレのはじまりの地ともいわれています。きっかけは、開港間もない居留地でわき起こった、外国人たちによる日本人の立ち小便への不満。欧米人にとって、立ち小便は不快極まりない行為だったのです。さっそく幕府が50銭の罰金を設けましたが、まったく効果なし。そこで、1871年(明治4年)、横浜町会が町の辻83カ所に板で囲った“つじ便所”を設置。これが日本の公衆トイレのはじまりとされています。
そんな、公衆トイレ発祥の街で、かつて表彰されたトイレがあります。中華街の一角、加賀町警察署の裏手、山下町203番地にある「洗手亭」です。1998年、横浜市が主催する「横浜・人・まち・デザイン賞」の景観部門賞を受賞しました。もしかしたらここにもかつて“つじ便所”があったかもしれません。中華街の隠れた見どころのひとつです。
「洗手亭」は蘇州の民家建築をベースにデザインされています。
取材協力:横浜開港資料館
参考資料:横浜開港資料館『横浜もののはじめ考』、横浜都市発展記念館『目で見る「都市横浜」のあゆみ』
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