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WITH MY CHINA TOWN
クレイジーケンバンド「ロサンゼルスの中華街」(6th アルバム「BROWN METALLIC」収録) やソロ名義の「中華街大作戦」(98 年発表の「CRAZY KEN'S WORLD」収録) など、そのままずばりタイトルとして、あるいは歌詞の中の一節として、” 中華街” を取り入れた楽曲を数多く発表している横山剣さん。14 年9 月に発売されたニューアルバム「Spark Plug」のお話と合わせて、中華街に対する愛と思い出をたっぷりと語っていただきました。
これほど濃密な中華街があるのは横浜だけ
―横浜に生まれ育ち、今も横浜をホームタウンに活動を続けていらっしゃる横山剣さんにとって、中華街の魅力とは?
横山:海外旅行から帰ってきたときに、まず最初に行くのが中華街なんですよ。成田に着いたら「よし、中華街行くぞ」って。中華街に行けば、まだ海外が続いているんですよね。だから「あ、ここもエキゾチックじゃないか。大丈夫」ということで、帰ってきた寂しさをならして(笑)。それから家に帰るんです。
―エキゾチックで、かつ安心できる場所でもあるんですね。
横山:なんかこう…小学生のときに初めてL・Aの中華街に行って、まさにぼくの理想がここにあると感じたんですよ。当時ですから、今の新しいチャイナタウンじゃなくてオールドチャイナタウン、旧チャイナタウンですね。だからもう、中華街に対するそういう気持ちはそれ以来ずっと変わらず。
―今でも旅行のときには、よくチャイナタウンに行かれるとか。
横山:ハイ、それも飛行機を降りてすぐ。まず最初に行くんです(笑)。どこに行ってもあるじゃないですか。ニューヨークだったらキャナル・ストリートとか、ロンドンだとソーホーのそば。あとはパリとか。その土地によって、味わいなんかも微妙に違ったりして。
ただ、着いてすぐに「中華街行こうぜ」って誘っても、なかなか…そういう思いというのは人と共有できないですね(笑)。「な~んでハワイに来たのに、海に行かないの!?」って言われたりして(笑)。
―海外のチャイナタウンと比べて、横浜中華街はいかがですか。
横山:こんな中華街は、世界にもあんまりないですよね。規模もでかいし、濃密さがすごい。サンフランシスコとかハワイのチャイナタウンもでかいですけど、より濃密なのは横浜中華街。これはもう、世界のどこよりもすごいと思います。
―普段はどちらのお店に行くことが多いですか。
横山:「華都飯店」の担々麺は親が好きなので、よく行きますね。それに家庭料理の小さなところ、「秀味園」。あとは「慶華飯店」とか「山東」。「同撥」も昼に叉焼定食を食べに行ったり。「四五六菜館」と「北京飯店」は、ライブの打ち上げでも使っています。まだ行ったことのないところも多いんですけど、このあたりはもう、どこに行ってもうまいですね。
子どもの頃から華僑文化にあこがれて
―先ほど、小学生のときに横浜中華街を初めて訪れたとおっしゃっていましたが、そのあたりのことをもう少し詳しく教えてください。
横山:いちばん最初は、昭和43年とか44年くらいの記憶がありますね。だから、ぼくが8歳や9歳の頃。いとこが山下町の病院に入院していたんで、母親とお見舞いに寄ったついでに。もう、歩いてるだけで興奮していましたよ(笑)。あの極彩色の感じ…漢字の看板とか、香りもそうだし、なにか強烈な波動みたいなものを感じて「受け止めきれない!」という気持ちになったのをおぼえてます。
―最初からピンとくるものがあったんですね。
横山:「慕情」っていう香港が舞台の映画がありますよね。当時、小学校をズル休みしたか何かで、家で寝転がってテレビを見てたら、たまたまそれがやっていたんですよ。もうタマンないな…と思いまして(笑)。あと、これも香港が舞台で、主演も同じウィリアム・ホールデンの「スージー・ウォンの世界」。この二本にヤラれてたんで「これだ! この世界観だ!」というのがあったんです。
―当時の思い出のお店というと、どこになりますか?
横山:思い出すと、いろいろイイ話があるんですよ。これはどこだったか忘れちゃったのが残念なんですけど、「いらっしゃいませ」も「ありがとうございます」も言わない(笑)。お茶とかもバ~ンと乱暴に出してきて、感じ悪いんですよ(笑)。でも、あとから黙って焼売をオマケしてくれたりしてね。愛想よりも気持ちでサービス。あのときはグッときましたね(笑)。
―めちゃくちゃイイ話ですね。
横山:それでまた、一瞬ニカッと笑うんですよ。その笑顔がもう…たまんないね! 今でいうツンデレですよ(笑)。第一印象が悪いだけに、ああいうのはもうね、反則(笑)。今はそんな味のある店もないですけどね。
そういえば「同撥」ではダンスパーティ、まあ当時はダンパ(笑)っていってましたけど、そんなのをやったこともあるんですよ。
―えっ、いつ頃のお話ですか?
横山:ええ~…昭和52年、17歳のときですね。当時は「チャイナドールズ」というグループをやってまして。「同撥」でダンパをやらせてもらえるというので場所をお借りして。お店の方が、すごく理解のある方だったんです。
―「チャイナドールズ」というグループ名からも、その当時の趣味が伺えますね。
横山:オリエンタルというか、華僑文化ですね。そういうのがカッコいい、クールだなと思っていたんです。華僑の人たちって、目には見えないケーブルで世界とつながってるような神秘性があるじゃないですか。日本にはない、これは只者ではない…という感じ(笑)。あと、龍とかも含めて、とにかくあこがれていましたね。
―龍という言葉は歌詞にもよく出てきます。
横山:そうですね、ハイ。それで10代の頃は、ファッションのコンセプトが「香港のチンピラ」ですよ(笑)。当時、コンポラっていうジャケットがあったんですけど、あれの襟をこう、チャイナカラーにして、ボタンもチャイナボタンにして。厚木とか横須賀のテーラーでオーダーするんです。でも実際に香港のチンピラを見たわけではないので、全部が自分の勝手なイメージ、妄想なんですけれど(笑)。
Profile
横山剣
クレイジーケンバンド・リーダー/
作曲・編曲・作詞・Keyboards・Vocal
1960年横浜生まれ。
小学校低学年の頃より脳内にメロディーが鳴り出し独学でピアノを弾き作曲を始める。
小学校5年生(1971年)の時、中古レコード屋の野外サウンド・システムにてマイク片手に実演販売を行う。こうしたことがキッカケとなって音楽の世界にのめり込んで行く。中学2年よりバンド活動を開始して以来、地元横浜を中心に数多くのバンドで活躍するが、1981年にクールスRCのコンポーザー兼ヴォーカルとして晴れてデビュー。以後、ダックテイルズ、ZAZOU、CK'S等のバンドを経て、1997年春クレイジーケンバンドを発足。
これを機に自分の作品に最も適したシンガーが自分である事に気付き、シンガー/ステージ・パフォーマーとしてのスキル&テクニックをも高めて行く。
作曲家としては、堺正章、和田アキ子、SMAP、TOKIO、一青窈、松崎しげる、グループ魂、藤井フミヤ、ジェロ、関ジャニ∞等、数多くのアーティストに楽曲提供。今年は、フジテレビにて放送された人気ドラマ『続・最後から二番目の恋』の劇中歌「T字路」(小泉今日子&中井貴一)を作詞・作曲し、好評を得る。
さらにm-flo、ライムスター、ARIA、マイティー・クラウン・ファミリーなど、ジャンルの壁を超越したコラボレーションを実現し、その音楽活動は多岐にわたる。
その他、2007年には初の自叙伝『マイ・スタンダード』(小学館)を約500ページ全て本人による書き下ろしで発売し、たちまち重版が決定するなど発売直後から、各マスコミの注目を集めた。横山の文章は各分野でも高い評価を受けており、待望の文庫本化が決定。2012年6月に発売された。