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WITH MY CHINA TOWN
「ゴダイゴ」は中国に初めて行ったロックバンド!?
ー「ゴダイゴ」といえば、真っ先に思い浮かぶのがテレビ番組「西遊記」の「モンキー・マジック」と「ガンダーラ」です。「西遊記」自体が中国のお話で、曲調もどこか中国風。このような発想は、どういった経緯で生まれてきたのですか?
ミッキー吉野:当時の日本の音楽業界は、アメリカに比べて30年ほど遅れていると感じていました。それなら自分が30年後の未来からやってきたと仮定して、いったい何ができるのか? もちろんアジア人である自分が、西洋人と同じことをしていても仕方がありません。そうしてアイディアを練っているうちに、総天然色の中国のイメージが湧いてきたんです。
ーそして1980年には、中国の天津市で開催された「第一次中日友好音楽祭」に出演。当時の中国は、まだ簡単に入ることのできない国でしたから、非常に画期的な出来事だったと思います。
ミッキー吉野:「中国に初めて行くロックバンドをつくりたい」という思いは、昔からずっと持っていたんです。しかし飛行機の定期便すらない時代ですから、実現するまでには時間がかかりました。
天安門広場にてゴダイゴメンバー
ーお客さんの反応はいかがだったんですか?
ミッキー吉野:それがちょうど、日本の映画が中国に入り始めた頃で、その中にはゴダイゴが音楽を担当した「キタキツネ物語」という映画もありました。ですから、その劇中歌である「グッド・モーニング・ワールド」は、若い世代なら誰もが知っているような曲になっていたんです。
ーでは、タイミング的にもちょうどよかったと。
ミッキー吉野:そうですね。コンサートの様子はテレビやラジオでも生中継されたのですが、テレビの視聴率は400%。4軒に1台くらいしかテレビがない時代だったので、みんなで集まって観てくれたみたいです。そういえば、持っていった楽器は帰国するときにすべて置いてきたんですよね。
第一次中日友好音楽祭にて。「ビューティフル・ネーム」の演奏中
ーそれは、中国の人たちにプレゼントしたということですか。
ミッキー吉野:ええ。それでお返しに銅鑼(どら)をもらったりして(笑)。後から聞いた話では、そのときにギターをあげた人が、中国で最初のエレクトリックギタリストに認定されたらしいです。
ーすごい!じゃあ、中国に初めてエレキギターを伝えたのは「ゴダイゴ」なんですね!
みんなが元気になれるようなイベントをやっていきたい
ー中国音楽界の重鎮ともいわれる郭峰(グオ・フォン)さんとの交流についても伺いたいです。なんでも最初に知り合ったのは、今から30年以上前だとか。
ミッキー吉野:彼が中国で最初のヒット曲を出した頃ですね。アルバムをつくるために来日して、たまたま自分がプロデューサーを務めることになったんです。当時は最先端だったコンピューターミュージックやエンジニアリングなど、音楽制作についていろいろなことを伝えました。
ミッキー吉野氏と郭峰氏
ーお2人の共作についても教えてください。
ミッキー吉野:中国と日本のアーティストが、本当の友情で何かを始めたいと思ったので、彼の曲(※1)に日本語の詞を書いたり。そういったことから始めていきました。今年、コロナウィルスで武漢が大変なことになっているときには、その曲を横浜山手中華学校の生徒さんたちに合唱(※2)してもらって、中国全土に配信したこともありましたよ。
※1:「この愛が世界に満ちるまで(让世界充满爱)」作詞 :ミッキー吉野/作曲: 郭峰 歌唱 :motoi
※2:中国語と日本語2ヵ国語で「この愛が世界に満ちるまで」を合唱。横浜山手中華学校の学生・教員が中国にエール 情報サイト「人民網日本語版」より *リンク先の動画が再生されない場合はこちらをクリック
ーそして5月には、一緒に日比谷野外大音楽堂で「日中友好音楽祭2020」というイベントを行う予定だったのが、惜しくも中止になってしまいました。
ミッキー吉野:だんだんと、それどころではなくなってしまいましたからね…。ただ、今の段階(2020年4月1日現在)では何も言えないのですが、状況が落ち着いてきたら、みんなに元気を出してもらえるようなことをやりたいなと思っています。
ーはい、ぜひ! すごく楽しみにしています。
ミッキー吉野:郭峰も来られるなら来てもらって。今度は規模を縮小してもいいから、本当の意味での日中友好を考えていきたいですね。それこそ、中華街で何かやっても面白いんじゃないかと思っています。
左から 横浜中華街発展会協同組合事務局長の蔵方氏/ミッキー吉野夫人/ミッキー吉野氏/同發オーナーの周氏
取材/坂本 乾 文/藤原 均 撮影/伊藤 司
Profile
ミッキー吉野 (みっきーよしの)
キーボーディスト・アレンジャー・ソングライター。
1951年12月13日 神奈川県横浜市出身。
68年、グループ・サウンズの「ザ・ゴールデン・カップス」に加入。そのプレイは天才キーボーディストと注目される。カップス脱退後71年6月に渡米、9月にボストンのバークリー音楽大学に留学。 卒業後帰国して「ミッキー吉野グループ」を結成する。
76年にゴダイゴ結成、数々のヒットを飛ばし、アレンジャーとしても高く評価される。85年のゴダイゴ活動停止後も音楽学校創設、スタジオ活動、映画音楽等で広く活躍。2004年の「スウィング・ガールズ」のサントラでは岸本ひろしと共に日本アカデミー賞の最優秀音楽賞を受賞した。 2003年にザ・ゴールデン・カップスが再始動、2006年にはゴダイゴも活動を再開、ヒダノ修一、鳴瀬喜博、八木のぶおとのEnTRANSや日野賢二・小浜マサ・松尾明とのセッション等、ロック・ジャズ・ポップス等ジャンルに捉われず幅広く活躍している。
ミッキー吉野 Official Website
https://www.mickieyoshino.com/